もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
禅と産業
−片岡仁志
哲学には体験が必要
教育者は哲学を勉強する必要がある。ところが、哲学の勉強には、また弊害が生じるおそれがある。哲学を勉強していながら、自分自身の行動は、勉強したものと全く離れたものになっている人が出てくる。それでは、哲学を理解していない。そこで体験することを勧める。
哲学の勉強だけでは弊害
哲学の勉強をして、自我をふくらませている者も出てくる。「無我」という哲学、仏教の教えを説いている僧侶や学者が、自分の名誉と財欲に執着していて、その言葉と行為の大なる乖離に気がついていないようなものである。ゴルフの話は非常に詳しく幅広く話す人が、現実には全くゴルフをやったことがないようなものである。実際にゴルフ・コースに出てプレイさせてみたら、日頃の話と全く違って下手であるようなものである。哲学を勉強して、人格を説明できるようになっても、その先生が自分の人格を向上しなければ、学生、生徒は心底から聞こうとしないであろう。
仏教学者の書いた仏教書が魅力がないのも、同様である。縁起説のみを重視し、無我の実践がない。その学者の日常生活を見て、何か違うと感じとる。そこで仏教の縁起説を考え続けるだけの仏教者はいなくなる。仏教も思想だけではない。それが、今でも仏教の研究者から理解されない。
片岡が嘆く状況は、今でも変わらない。彼はこういう。
◆「哲学を勉強して、哲学概念の論理体系を背負って歩いたのでは、教育にならないのです。そういう論理体系を背負って歩くのではなくて、そんなものはみんな自分の血の中に溶かしてしまって、そしてそれを自由自在に働かしていくのでなければ、毎日毎日の教育の仕事にはならないと思います。そんなふうにして、皆様がますます、哲学研究を活発にやっていただくことを願います。」(C174)
哲学には体験が
そこで、片岡は、西田哲学を勉強して理解するだけではなく、現実の自分に実現していくことを求めている。「哲学思想の生活化」という実践課題である。
哲学は、論理的、思想的に、頭脳的に真の自己を解釈、理解するものであるが、真に理解するためには、体験の必要である、として坐禅があるとも言った。
◆「西田哲学の根本というものは、やはり一つの体験に帰着するようなものです。」(C152)
◆「カント哲学を読む場合でも、ヘーゲル哲学を読む場合でも、読む人自身の生命の根本に立ち返ったところで出て来る体験、そういう体験をもとにしながら読んでいくことができます。そいういう読み方をするならば、哲学書というものは、自分の体験を一々ていねいに注解してくれる注釈書のようなものです。・・・
それをもって、自分の体験の間違いでなかったということも確かめられる、また自分の思い違いや、思い上がりというものも気づかせられる。」(C173)
哲学は難しいものです。私も哲学を勉強していないので、哲学を語ることはできない。しかし、片岡が言うように、体験的に読むことができる。
◆「もしこれが身体的自覚の意味を持たぬ限り、自己自体の空性や絶対無の自覚体験には到底到り得るものではなく、それは単なる概念や理念の範囲を出づることなく、従って概念の空無以外の何物でもない、又精々想像上の追体験として理解し得ても、何等の実在性を得ることも出来ないのである。」(D260)
仏教もそうです。仏教も、西田哲学と同じことを文学的に書いている。仏教も禅も書いた文字を理解したら、それを日々の生活の中で実践してくべきものである。坐禅を覚えたら、悟りを得たら、それも意識からは埋没して、すっかり自分の生活に溶け込んでいかなければならない。書いた経典(法華経や正法眼蔵など)がないと落ち着かない、それがないと人に教えられないというのでは、とても、とても体得どころではない。そういう程度で満足しているのは、浅い満足で、何か大きな出来事があると大騒ぎとなる。
禅の実践のいいことろは、誰でも実践できることである。哲学は大変難しい。『善の研究』を読んでみられるがいい。おそらく理解は困難だろう。しかし、禅は、むつかしい頭を使わないので誰にでもできて、西田哲学でいう「真の自己」を直観し、その結果、『善の研究』も理解しやすくなる。そこが、禅(本来の仏教である。初期経典を見ると、釈尊は坐禅を専らすすめている。)は実践宗教であるところであろう。哲学は頭のいい人でないと理解できないが、禅の実践は、学問のない人でも実践すれば真の自己を悟り、救われる。禅の実践は、学問にかかわらず、貧富にかかわらず、男女にかかわらず、簡単に楽に実践できる。
むつかしい
坐禅の行自体は楽で簡単である。ただし、時間はかかる。数年かかる。それが「容易でない」という。自我、認識という「色眼鏡」で見ることを長年続けてきたので、その色眼鏡を取り払うことに、しばらく時間がかかる。ただ、理解だけでなく体得はそう容易ではない、と片岡は何度も言う。
◆「こういうことに、気がつかなければならないはずです。それにもかかわらず、理性的になってしまった人間にとっては、これはなんでもないはずのことなのであるが、それをつかむことが大変むずかしい。そのためには、また今度は、非常な努力、奮闘、それこそ体究練磨というか、自分の五体を用いて、もういっぺん鍛練に鍛練を加えて、その自分の本性に立ち返ってみるという努力をしてみなければならないことになります。」(C156)
◆「何をやるにも、自我的自己から考え、自我的自己から行動するという習慣が積み重ねられてきています。それを一朝にして放棄してしまえということは、まことに容易ならぬことです。」(E377)
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